校長メッセージ

言葉の危うさ・曖昧さ

キリスト教は言葉の宗教と言われます。ヨハネによる福音書は、「初めに言(ことば)があった」という一文から始まっています。
 言葉は大切な意思疎通の手段です。しかし、最近その言葉がかなり薄っぺらになってはいないかと危惧します。
 例えば現政権の言う「積極的平和主義」という言葉、極めて聞こえが良いのですが、積極的に平和を維持すると言いつつ、戦争が出来る国への方向転換、ということは何のことはない、自国の平和を守るには戦争も辞さない、と言っているようなものです。
 将来的に再生可能エネルギーへの転換と言いつつ、現段階では安全と診断された原発を再稼働する、というのも言葉が内実とはかけ離れているとしか言いようがありません。
 政治学者の丸山真男氏は、敗戦直後に、「これだけの大戦争を起こしながら日本には、我こそ戦争を起したという意識が見当たらない」と指摘し、「何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか」と言っています。原発事故、これだけの大事故を経験しながらと言いたくなります。
 さらに日本では、敗戦後に日本人を主体とした戦争責任の追及がありませんでした。誰の責任なのかと追及するという発想でなく、「一億総懺悔」、日本人全員が悪かったのだ、と誤魔化し、結局誰も責任を取らず、反省をしなかったのではないでしょうか。そのことが現在でも近隣諸国の人々から、日本人は歴史認識に問題あり、と指摘されていることではないかと思います。唯一日本が世界に示した戦争責任は、「憲法第9条」ではないのかと言えます。
 原発の問題にしても、これだけの被害、被災者を出しながら、責任の所在もはっきりさせていません。かつて原子力の平和利用と謳った米国の大統領は、水爆実験への世界からの非難をかわす目的で、「原子力の平和利用」という言葉を作り出しました。しかし、所詮原子力は人間のコントロールできる範囲を超えているのです。核分裂にしろ核融合にしろ、原子核反応は私達が化学の実験などで行う化学反応とは全く異なる現象なのです。化学反応は元素そのものは変化させず、結合状態を変化させるだけですので、どうにか制御できます。ところが原子核反応は、元素そのものを変化させ、自然界、宇宙空間には存在しない新たな元素を創り出してしまう反応なのです。とても人間の制御できる代物ではないことを、多くの科学者は知っていました。しかし、核の平和利用という甘い言葉で誤魔化し、原子力発電所を造ってしまったのです。神の創造の業の領域に踏み込んだのです。まさに旧約聖書、創世記に記されている「バベルの塔」です。人間の傲慢さがここに極まったと言えます。
 日本人はスローガンをたてるのが好きであり、またスローガンに洗脳され易いのではと思います。明治初期の「西欧に追いつき追い越せ」から始まって、「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」「一億玉砕」とその気になり、やがて「一億総懺悔」と逃げてしまう、そんな図式が見られます。これも言葉の危うさの一つだと思います。
 それとは別に最近の傾向として、スマホなどIT機器を利用した世界が広がっています。若い人たちに瞬く間に普及したIT機器ですが、人と人との接点が、互いに顔を見合わせるのでなく、電子機器の画面を通した繋がりになっていることの重大性にこそ、国家的に取り組むべき課題があるのではと思われます。
 また言葉そのものも時代と共に内容が変化していくこともあります。たとえば、真夏の暑い中で農作業をしている人に「暑いでしょう?」と聞いた場合、「とても!」と返事があれば当然それは「とても暑い」という意味に受け取ります。しかし「全然」と返事があれば、「全然暑くありません」と受け取るのが普通です。「全然」は否定的な語を伴うのが普通だと思うのですが、最近「全然」も肯定的な意味で使うことが見られます。不自然に思いましたが、確か漱石の文章の中にも、肯定的な意味で使っている文章があったように記憶しています。
メールやツイッターなどでは、言葉は簡単に省略され、感情は絵文字で表現されという状況です。言葉の内容の変化と共に、意思疎通がかなり難しくなっています。メールでの言葉のやりとりは、感情もこじれることがあるのではと思います。言葉が足らず、ニュアンスも伝わらない、顔が見えない、様々な要素で関係がこじれ、いじめに発展する、そんな事態が多く発生しているのです。
 学校教育の中でも、言葉の大切さをもっと真剣に教えなければならないと思います。さらに最近のゲームの普及にも問題を感じます。ゲームの多くが「敵を倒す、悪者を倒す」という内容になってはいないでしょうか。このようなバーチャル世界に慣れると、相手を抹殺しても相手を傷つけてもリセットできると信じ込むことも充分にあり得ることです。つまり現代は、学校教育からはみ出た領域で、いじめなどの萌芽が育まれていることに注意すべきではないかと思います。平和を云々するには、まず足元の子ども達を取り巻く環境について議論すべきなのではと思います。子ども達の心が荒れすさんでいては、教育効果も上がらないし、本当の平和には繋がらないと思います。

横浜共立学園中学校 高等学校
校長 坂田雅雄

Page Top