ひとりの人間として自立するための資質を身に着ける6年間

横浜共立学園は、1871(明治4)年、米国婦人一致外国伝道協会から派遣された3人の女性宣教師、プライン、クロスビー、ピアソンによって設立されました。女性宣教師たちは、当時、人々にかえりみられることが少なかった女子の教育に光を当て、キリスト教精神に基づく人格教育を始めました。そして創立以来、「主を畏れることは知恵のはじめ」(箴言1章7節)、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカによる福音書10章27節)という聖書の言葉を根幹に据え、神に愛されていることを知り、愛と喜びをもって隣人に仕える心の育成に取り組んでいます。

キリスト教の価値観は、数千年の歴史が裏付けてきた、世界的に普遍性を持つ価値観です。現代のグローバル時代において、世界の人たちと共有する価値観を身に着けていることは、互いを理解する上でも大きな財産となるでしょう。

教科教育においては、授業の学習で十分な学力を身につけさせることに重点を置き、一人ひとりに寄り添いながら丁寧な指導を重ね、学力の定着を図っています。授業では、問題集などの副教材を活用した内容の濃い学習が進められ、自ら進んで学びを深める力が備わっていきます。6年間を通して身につけた学力は、言語力、論理的思考力、表現力を支えるものであり、大学進学だけでなく、将来の働きや学びの確かな土台となっていきます。


進化を続ける高度情報社会に向けて

インターネットなどの情報通信技術の発展と普及により私たちを取り巻く情報量は大幅に増加しています。コロナの感染拡大によって、人に会えなかったり、活動が制限されたりと、不自由な生活を強いられましたが、情報が手に入らなくて困った、ということはほとんどありません。むしろ情報が多すぎて、何が正しいのか、何が自分にとって価値のある情報なのかがわからなくなってしまうくらいです。インターネット上のニュースは、新聞と違って断片的な情報が多く、誤った認識や偏った意見に誘導される危険性があります。特に中高時代の成長期にインターネットの情報ばかりに頼るようになると、偏った情報によって人間形成が曲げられてしまうのではないかと懸念しています。

学園創設者の一人であるピアソン先生は、「理論的考察力を養って真実を見、迷信、狂言を防衛する力を備えなければならない」と述べ、教科教育の充実を図りました。150年たった今もなお、心に刻んでおかなければならない事であると感じます。インターネットなどを通して流れ込んでくる情報の質を吟味し、正しく読み解き、適切に活用できるようにならなければなりません。このような力は言語力と論理的思考力を高めることによって身につくものであり、したがって今まで同様、教科教育にしっかりと取り組むことが必要です。

一方で、これからの新しい高度情報社会においては、ICTに関する知識やデータを分析する能力も求められていきます。日本政府が提唱する「Society5.0」構想では、様々なモノがインターネットにつながり、そこで集められた膨大な情報をAIが分析するようになります。これは一見すると人間の思考が不要になるように思えますが、その予測の結果にどの程度の価値を置かは常に人間側に問われていることになり、その判断ができないと、AIに振り回され、利用される人になってしまいます。新しい時代に向かう学園の生徒たちが、AI技術を効果的にかつ正しく活用できるようになるために、ICTやプログラミング、またデータサイエンスに関する知識や技能を養う学びを進めていかなければならないと考えています。

しかし、AI技術がいくら発展しても、私たち人間の性質が変わるわけではありません。情報に振り回されて自分自身を見失うことがないように、生徒一人ひとりが、価値観を確立し、人間とは何者であるかを問いかけながら、自分自身の生きる意味を見出していくことが重要です。

社会の情報化はさらに進んでいきますが、学園で受け継がれてきたキリスト教による人格教育は、このような時代だからこそ大切になっていくのだと思います。人間が神によって造られ、神から愛されている存在であることを知ることは、すべての知恵の始まりです。これからも礼拝と聖書の学びを中心としたキリスト教教育の充実に力を注ぎながら、進化を続ける高度情報社会に向けた教育に取り組んでいきたいと考えています。

ICT機器の導入について

学園では、ネットワーク環境の整備に伴い、ICTの導入を進めています。
情報通信技術の活用が生徒の成長に有益なものとなるように、また、基礎学力向上の妨げとならないように注意を払いながら、以下のように端末機器の導入を進めています。
・ 中学校1年生、2年生は、学校からタブレット(iPad)を各生徒に貸与します。
・ 中学校3年進級時に、モバイル型パソコン(学校指定)を各自で購入していただき、高校卒業時まで利用していただきます。

校長メッセージ

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校長メッセージ

横浜共立学園中学校 高等学校 校長 小澤伸男
横浜共立学園中学校 高等学校
校長 小澤伸男


創立精神

「主を畏れることは知恵の初め」 (箴言 1章 7節)
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、 また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカによる福音書 10章 27節)
創設者
横浜共立学園は、1871(明治4)年、米国婦人一致外国伝道協会から派遣された3人の女性宣教師、プライン、クロスビー、ピアソンによって設立されたアメリカン・ミッション・ホームを起源とする、プロテスタント・キリスト教による女子教育機関です。 女性宣教師たちは、当時、人々にかえりみられることが少なかった女子の能力を高く評価し、全力を尽くして教育にあたりました。 学園の教育の根底にあるもの、それは「ひとりの人間を無条件に尊重し愛する」というキリスト教精神です。 「主を畏れることは知恵のはじめ」(箴言1章7節)「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカによる福音書10 章27 節)という聖書の言葉を根幹に据え、キリスト教に基づく価値観を基本にしています。 一人ひとりが神に愛されていることを受けとめ、それに基づいて豊かな人間性を備え、隣人に仕え、世界の平和のために貢献する女性の育成を目指しています。


キリスト教教育

学園の教育の根幹となっているのは、キリスト教による人格教育です。生徒一人ひとりに愛情を注ぎ、神に愛されていることを伝え、神の愛に応え、隣人を愛する生き方を学ぶことを大切にしています。
キリスト教の価値観は、数千年の歴史が裏付けてきた、広く世界的に普遍性を持つ価値観です。現代のグローバル時代において、世界の人たちと共有する価値観を身に着けていることは、互いを理解する上でも大きな財産となるでしょう。
「主を畏れる」とは絶対者である神を知ることであり、それは自分が中心なのではないことを知ることです。そして神が自分を愛してくださり、自分がその愛のうちに生かされていることを知ることでもあります。そのことによって愛を実践する生き方を知り、神を愛し、隣人を愛する心が整えられていきます。高い学力や能力を身に着けることは大切ですが、それは自分のためだけでなく、隣人に仕えるためでもあるのです。
創立当初の校舎学園の一日は毎朝の礼拝で始まります。また聖書の授業が週一時間あります。クリスマスやイースターなどの特別礼拝、「国際理解週間」や「ハンセン病を正しく理解する週間」などの宗教行事も充実しています。これらの活動を通して、神を畏れ、人々を愛し、喜びをもって他者に仕える心が育まれていきます。


女子教育

学園は、創立以来一貫して女子教育に取り組んできました。10代では男女によって発達の仕方が異なります。人格形成においても学習面においても、それぞれの特質に合わせた教育によって大きな効果を得ることができます。また、すべての活動を女子だけでおこなわなければなりません。異性に依存することのない環境の中で、自立の精神が養われていきます。さらに女子校には、自分の個性を安心して精一杯表現できる環境があります。学園生活の中で互いの個性を認め合える関係が作られ、他者を理解し、共感する心が養われていきます。そして、その関係づくりの中から、自分と向き合うことを学んでいくのです。
女子教育において先駆的な歴史をもつ本校で学ぶことによって、それぞれの在り方や生き方を深く考えるとともに、ひとりの人間として自立するための資質が身に着いていきます。

授業風景

言葉の危うさ・曖昧さ

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校長メッセージ

横浜共立学園中学校 高等学校 校長 坂田雅雄
横浜共立学園中学校 高等学校
校長 坂田雅雄

キリスト教は言葉の宗教と言われます。ヨハネによる福音書は、「初めに言(ことば)があった」という一文から始まっています。
 言葉は大切な意思疎通の手段です。しかし、最近その言葉がかなり薄っぺらになってはいないかと危惧します。
 例えば現政権の言う「積極的平和主義」という言葉、極めて聞こえが良いのですが、積極的に平和を維持すると言いつつ、戦争が出来る国への方向転換、ということは何のことはない、自国の平和を守るには戦争も辞さない、と言っているようなものです。
 将来的に再生可能エネルギーへの転換と言いつつ、現段階では安全と診断された原発を再稼働する、というのも言葉が内実とはかけ離れているとしか言いようがありません。
 政治学者の丸山真男氏は、敗戦直後に、「これだけの大戦争を起こしながら日本には、我こそ戦争を起したという意識が見当たらない」と指摘し、「何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか」と言っています。原発事故、これだけの大事故を経験しながらと言いたくなります。
 さらに日本では、敗戦後に日本人を主体とした戦争責任の追及がありませんでした。誰の責任なのかと追及するという発想でなく、「一億総懺悔」、日本人全員が悪かったのだ、と誤魔化し、結局誰も責任を取らず、反省をしなかったのではないでしょうか。そのことが現在でも近隣諸国の人々から、日本人は歴史認識に問題あり、と指摘されていることではないかと思います。唯一日本が世界に示した戦争責任は、「憲法第9条」ではないのかと言えます。
 原発の問題にしても、これだけの被害、被災者を出しながら、責任の所在もはっきりさせていません。かつて原子力の平和利用と謳った米国の大統領は、水爆実験への世界からの非難をかわす目的で、「原子力の平和利用」という言葉を作り出しました。しかし、所詮原子力は人間のコントロールできる範囲を超えているのです。核分裂にしろ核融合にしろ、原子核反応は私達が化学の実験などで行う化学反応とは全く異なる現象なのです。化学反応は元素そのものは変化させず、結合状態を変化させるだけですので、どうにか制御できます。ところが原子核反応は、元素そのものを変化させ、自然界、宇宙空間には存在しない新たな元素を創り出してしまう反応なのです。とても人間の制御できる代物ではないことを、多くの科学者は知っていました。しかし、核の平和利用という甘い言葉で誤魔化し、原子力発電所を造ってしまったのです。神の創造の業の領域に踏み込んだのです。まさに旧約聖書、創世記に記されている「バベルの塔」です。人間の傲慢さがここに極まったと言えます。
 日本人はスローガンをたてるのが好きであり、またスローガンに洗脳され易いのではと思います。明治初期の「西欧に追いつき追い越せ」から始まって、「鬼畜米英」「欲しがりません勝つまでは」「一億玉砕」とその気になり、やがて「一億総懺悔」と逃げてしまう、そんな図式が見られます。これも言葉の危うさの一つだと思います。
 それとは別に最近の傾向として、スマホなどIT機器を利用した世界が広がっています。若い人たちに瞬く間に普及したIT機器ですが、人と人との接点が、互いに顔を見合わせるのでなく、電子機器の画面を通した繋がりになっていることの重大性にこそ、国家的に取り組むべき課題があるのではと思われます。
 また言葉そのものも時代と共に内容が変化していくこともあります。たとえば、真夏の暑い中で農作業をしている人に「暑いでしょう?」と聞いた場合、「とても!」と返事があれば当然それは「とても暑い」という意味に受け取ります。しかし「全然」と返事があれば、「全然暑くありません」と受け取るのが普通です。「全然」は否定的な語を伴うのが普通だと思うのですが、最近「全然」も肯定的な意味で使うことが見られます。不自然に思いましたが、確か漱石の文章の中にも、肯定的な意味で使っている文章があったように記憶しています。
メールやツイッターなどでは、言葉は簡単に省略され、感情は絵文字で表現されという状況です。言葉の内容の変化と共に、意思疎通がかなり難しくなっています。メールでの言葉のやりとりは、感情もこじれることがあるのではと思います。言葉が足らず、ニュアンスも伝わらない、顔が見えない、様々な要素で関係がこじれ、いじめに発展する、そんな事態が多く発生しているのです。
 学校教育の中でも、言葉の大切さをもっと真剣に教えなければならないと思います。さらに最近のゲームの普及にも問題を感じます。ゲームの多くが「敵を倒す、悪者を倒す」という内容になってはいないでしょうか。このようなバーチャル世界に慣れると、相手を抹殺しても相手を傷つけてもリセットできると信じ込むことも充分にあり得ることです。つまり現代は、学校教育からはみ出た領域で、いじめなどの萌芽が育まれていることに注意すべきではないかと思います。平和を云々するには、まず足元の子ども達を取り巻く環境について議論すべきなのではと思います。子ども達の心が荒れすさんでいては、教育効果も上がらないし、本当の平和には繋がらないと思います。

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男女別学教育について

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校長メッセージ

横浜共立学園中学校 高等学校 校長 坂田雅雄
横浜共立学園中学校 高等学校
校長 坂田雅雄

横浜共立学園は1871(明治4)年に創立され、今年で144年目を迎えます。創立以来キリスト教に基づく女子教育を実践しています。
 歴史的には多くの国で、学校教育の基本は男女別学から始まっています。日本では既に1872年の学制頒布の際に、男女の教育機会均等が述べられています。しかし機会均等は即、共学に結びつくものではありません。明治政府は「西欧文化に追いつき追い越せ」をスローガンに、富国強兵、殖産興業を目指し、実質的には男子中心に学校制度を整備してきました。
 その時代に、キリスト教宣教師の多くは、キリスト教に基づく女子教育を始めました。その価値体系は、歴史的にも、世界的にも広く認められるものであって、一部の国家や民族にしか通用しない価値観とは大きく異なるものです。
 敗戦後の教育制度が整えられる中で、GHQによる男女共学化の指導もあり、公立学校は共学化が進められましたが、私学の多くは別学を続けていました。その後日本社会でも、男女共同参画が謳われるようになり、社会の対等な構成員として、様々な分野で社会活動に参画することの重要性が認識され、1999年に「男女共同参画社会基本法」が制定されました。そしてその頃から私学でも男女共学が進められるようになりました。
 しかし、男女共同参画社会が重要であることと、男女共学が何故結びつくのかは疑問です。たしかに年少期から、男女ともに平等に、そして協力しあって生きることは大切ですが、年少期の発達過程では男女では異なる点も多くあることも事実です。学習効果の面からも、男女の特性がそれぞれ生かされることが必要ではないでしょうか。
 私はかつて男子校の教員として勤務していました。その高校は長い伝統を離れ、他校に先立ってかなり早い時期に男女共学に踏み切りました。その経験から言えることは、男子校であったときの男子と、男女共学になってから入学してくる男子とでは、かなり様相が異なっているということです。したがって別学が共学に移行する場合、根本的な教育論を教職員間で充分に議論する必要があります。それまでと同じ教育論は通用しませんので、どっちつかずの曖昧な教育を展開してしまうことになりかねません。また男子校が共学にするのは比較的容易ですが、女子校の共学化は慎重に行うべきではないかと思います。
 現在話題にされている男女共学・別学をめぐる議論の多くが、「男女平等」「教育の機会均等」といった側面で語られ、時には募集対策という経済的側面が優先され、教育の目的、内容、効果といった議論は埋没させられているのではないかと思います。「女性の輝く社会」と謳われていますが、単なるスローガンに過ぎないのではないかという懸念を拭えません。なぜならそれが一体どのような社会なのか全く不明瞭で、経済優先社会を構築するのに女性が必要であるとしか見えてきません。
 教育とは、文化の伝承と新しい知識を得ること、そして大切なことは、人間を育てる、人格を形成することです。そこで踏まえておかねばならないことは、男女差別と男女の区別はおのずと異なるということです。差別と区別を混同することによってかえって本質を見失い、混乱を生ずることが多くの場面で見られます。男女は同権であっても同質ではありません。男女を同質と考える画一的な教育は、男女固有の特質を潰してしまうことになりかねません。共学によりかえって、男女の棲み分け、差別感が強調される恐れがあるとさえ思えます。共学の良さは様々あります。しかし別学による教育効果は無視できないと思います。
 女子特有の感性などを数値で表すことは出来ませんが、女子校で多く見られる傾向はあります。女子校の清潔さ、古い校舎であっても清潔で綺麗な校舎は女子校の特徴ですが、教育にはとても大事なことです。また女子の特性は,コミュニケーション力にあります。高齢者のホームなどでも、女性同士の会話は普通にみられますが、男性は孤独なまま、ということが多いと言われています。
 学校行事などでも女子の場合は団結力が存分に発揮されます。個が抜きんでるのではなく、互いに助け合い協力し合って行事を運営します。しらけた冷めた雰囲気は少なく、共に協力し合う中で、互いの友情を深めます。学習への取り組み方にしても、女子はまず聞き取り、受け入れ、そして思考し、それから表現したり行動したりするのです。男子の思考、行動とは異なる傾向が見られます。またグローバルを求める現代、女子校の卒業生たちが語学力と環境順応力を生かしつつ、国際交流の最前線で活躍している現実があります。
 そして命を育むという、本質的な女性の特性により、平和への思いは男性よりも女性の方が強いと言えます。女性は戦いよりも和解の道を求めます。そのような様々な女性の特性が存分に育てられるのが女子校ではないかと思います。教育、すなわち人間を育てることは人間の生き様を示すことでもあります。女性教職員の多い女子校こそ、女性の生き方を学ぶ絶好の場ではないかと思います。
 日本はかつて新しい国家を作ろうと、男子高等教育機関の設立に力を注ぎました。それに対して多くのキリスト教学校は、女性と幼児の教育こそ、この国に必要であると訴え、その活動を続けてきました。これからの社会ではますます女性の役割が求められ、女子校の大切さが求められると信じています。

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本校舎の保存について

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校長メッセージ

横浜共立学園中学校 高等学校 校長 坂田雅雄
横浜共立学園中学校 高等学校
校長 坂田雅雄

横浜共立学園の本校舎は、1931(昭和6)年10月31日に竣工した、地下1階木造3階建寄棟造り(地下1階部分は石炭貯蔵庫、現在は倉庫)、瓦葺の建造物です。
 1923(大正12)年9月1日の関東大震災により学園の校舎は倒壊し全焼してしまいました。その後建てられた本校舎の設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories 1880.10~1964.5)で、彼は米国に生まれ、1905年に滋賀県立商業学校の英語科教師として来日しました。1908年京都で建築設計監督事務所(後のヴォーリズ建築事務所)を開業し、日本で数多くの西洋建築を手掛けた建築家です。
 本校舎の建築資金の多くは米国のミッション(米国婦人一致外国伝道協会)からの寄付によりますが、当時は世界的経済不況で、なかなか寄付が集まらなかったそうです。しかし匿名の一米国婦人より寄付があり、建築が実現したのです。スチーム暖房式の全館セントラル・ヒーティングを設置し、ダスト・シュートも付いており、中心部分に鉄筋コンクリートの壁を用い、耐震構造の配慮がなされています。
 太平洋戦争中の1941(昭和16)年8月に「金属収令」が公布され、1944年には範囲が拡大され暖房設備一切を供出しなければなりませんでした。同年9月、本校舎と体育館は海軍に接収されました。
 1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲により体育館、第二校舎、第三校舎、教員宿舎などすべてが灰燼に帰しましたが、本校舎のみ奇跡的に焼け残ったのです。
 そして1988(昭和63)年11月に横浜市指定文化財(第1号)に指定されました。

 現在本学園では校舎等再整備計画を進めています。横浜市に「都市計画提案」を提出していますが、現在の規制では南校舎の高さを維持できないため、せめて高さ15メートルまでは緩和していただきたいと望んでいます。
 その再整備計画では、「本校舎を、学園の大切な宝物として保存する」ことを柱にして計画を進めています。
本校舎は卒業生にとって大切な「心の故郷」です。その大切な故郷を失うようなことはあってはならないと考えています。現在本校舎も耐震補強は行っていますが、さらに今後も長く保存できるように、再整備計画に盛り込んでいます。校舎等再整備計画がいつから始められるかは、今のところ未定です。関東平野の直下型震災が起こらないうちに、補強工事を進めたいと考えています。
2014年7月25日

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